2025年9月1日月曜日

1 ロイ・大城

 私の子どもたちが心理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。

ヨハネの手紙 第三 4節


 




 

2 知っている人が写っていませんか?

 もしかして・・・

あれは、何年・・・

3 父がよく口にしたみことば

 私の子どもたちが心理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。

ヨハネの手紙 第三 4節


 




4 天願1325が写真館に変身

 


 
夏季学校・路傍伝道・洗礼式・プリンセル先生・福音連盟・日曜学校・福音丸・伝道チーム・祈祷会・証会・キャロリング・石垣島・バンクーバー・宣伝カー・リーズナー先生・カマボコ教会・種薪踊り・食事会・・・

子どものときの
  自分、
     友人、
        親戚、
            知り合いが
                写っているかもしれません。


ぜひ見に来て下さいね。

2025年8月24日日曜日

5 ロイ・大城 葬儀に読まれた

 1921年7月20日にカナダ、マニトバ州、ブランドン市で大城正子に長男ロイ昇が生まれる。


ロイ、1歳
19301932、世界大恐慌の間、母正子と息子3人は沖縄に行き、カナダにいる父親から仕送りを受けながら親戚と住んで、天願小学校に出席する。


1932年にカナダに戻り、バンクーバーに住むようになり、小、中、高校の間、英語の学校の放課後、日本語学校でも勉強し、卒業する。西洋と日本文化の良いところを合わせて立派な日系市民を作りたいと思い、1941年にブリティッシュコロンビア大学に入学し、教育学を専攻する。
大学1年生のロイ
1942年に日本の真珠湾攻撃の結果、日系人は強制的に退学となり、ロイの家族はアルバータ州に移動させられ、砂糖大根の農場で働く。
弟明・ジョージ
ロイは後ろ
後ほど、戦争のために教師の不足が起こり、カナダは特別教育学の学びを提供し、ロイは教師免許を取得し、カナダで最初の日系人公立高校の男性教師となる。
表彰状
1948年にクリスチャンの同僚の影響もあり、伝道集会に出席し、マルコ8:36のメッセージを聞き、魂の大切さを考え、クリスチャンになる。すぐさま、沖縄の親戚にもこの大切な教えを知らせなければと思い、翌年に教師の職を辞め、神学校に行き、聖書の学びをする。1954年に卒業し、宣教師となり、1955年に沖縄に行く。
独身時代のロイ
宇堅、首里、石川、石垣、平川、と様々な所で教会を開拓し、人々が真の神様に心を向けるように努める。
 
当蔵の教会の祈祷会、1959年
2006年に85歳で宣教師の仕事を引退し、2016年に召天するが、多くの信者により伝道の働きは続けられる。

2025年8月23日土曜日

2025年8月22日金曜日

7 人を笑わせようとした父

     

おかあさん、ジョイス、本当におつかれさま。

2025年8月21日木曜日

8 ひとりの来病人の祈り

 10月30日の礼拝のメッセージは、らい病人が癒された話しだった。


「らい病のことは分かりますか?」と牧師先生が言ったとき、
自分は川端さんのことを思わずにはいられなかった。

*   *   *   *   *

川端トミ姉は、1950年代、らい病のために隔離されていたときに救われた。
病気が完治後、彼女は家に戻った。健康と霊的いのちをてにした川端姉は、
周りの人に証し、村に教会が与えられるように祈り始めた。
 

1958年、宣教師大城昇・君子先生たちが、宇堅村に開拓伝道をしに来た。
「大城先生、あなたが来ることを待っていたのですよ。」と暖かく迎えられた。
そして、川端姉と数人の信者の証のため、村の30名ぐらいが集まって
米軍が要らなくなったかまぼこ型兵舎の建物をもらって
宇堅福音教会を建てることになった。

しばらくしてから、村の子供たちは、「むらのちいさききょうかい」を、
「むらのカマボコきょうかい」と、歌っていた。♪

天の神は、一人のらい病人の祈りを答えてくれたのだろうか。

*   *   *   *   *

現在の宇堅福音教会
私が覚えている川端トミさん:

毎朝、目が覚める時、「ああ、神様に愛されているんだと、思い出して
一日を始めることにしている」と、言っていた。

*   *   *   *   *
 
百歳まで生きたいと言っていた川端さん。百歳まで生きた。
「神の恵みのトロフィー」の一人だと、父が言っていた。
 
私たちを暖かく見守って愛して下さる神様に、
自分も心の目をしっかりと留めておいて
生きたいと思う。

 

2025年8月20日水曜日

9 由来はわかりますか?

  多くの日本の学校で イスラエル民謡として紹介されている踊り

「マイムマイム」
  
「マイム」はヘブライ語で水をあらわす言葉です。という説明までは、大体される。
イスラエルに戻って来た人たちが掘り当てた、井戸の水が出たことを喜んでいると、よく聞く。
だけど、この曲のストーリーは、それで終わる。喜びの踊りの歌詞は、どこからきたのか、わかりますか
「ウシャブテム マイムベッサソン ミイマイエネハイエシュア」
(日本語訳:)
「あなたがたは 喜びのうちに
救いの泉の水をくむ。」
そう、イザヤ12:3です!


父は、よく言っていました。神の子こそ喜んでいられる。
私たちが喜べなければ、いったい誰が喜べるだろう?

「主よ、どんなことがあっても、神様がわたしたちを救い出し
導いてくださると信じ、
喜びに溢れる心を与えて下さい。
マイム・マイム・・・♪」

10 与勝の窓から

 空の撮影をしながら、父の与勝老人ホームを思い出した。(窓から見えた風景じゃなく、木にとまったあの小鳥。)一緒に景色を楽しんでいたのかな。まさか。


与勝の窓から

あれは2013年。両親の世話をするため、里子は1階のアパートに住んでいたけれど、父は出血・高熱などで、その年から、家に住めなくなった。


熱が中々さがらない  HCUで眠りながら祈る父

神様が辛い状態から解放してくれたらいいけど、そうしてくれないなら、多くの人は、そんな神様、信じたくないと言う。父は、そんなことを考えなかった。


個室でニコニコ  大城家、中頭病院で

父が入院したと聞き、妹も自分も沖縄に行った。気が付いたら、数週間も、大城家5人が同じ場所で祈ったり賛美したりしていた。神様、ありがとう。